政策提言
わたしが政治を志したきっかけ
私は個別指導塾で講師として働いてきました。
きっかけは、中学の頃に通っていた塾の先生が大好きで憧れていたので「将来は自分も塾で働いてあんな先生になりたい!」と思ったことです。
まず、私が個別指導塾で講師を始めて一番驚いたのは、生徒の学力の低さ。そして、そういった生徒の数の多さです。
私が中学で通っていたのは集団指導の進学塾でしたので、 みんなある程度以上の学力があり、あとは本人のやる気次第のようなところがありました。
ですが、個別指導塾には「個別に教えてもらわないとどうにも太刀打ちできない」という状況の生徒が多いです。
具体的には、小・中・高生どの学年においても、学校の授業が全く理解できない、勉強が嫌い、勉強してもテストで点数が取れない、勉強習慣がない、勉強の仕方がわからない、そもそも勉強の必要性を感じていない等の例が挙げられます。
こういった生徒の学力をあげて本人や保護者様に満足して頂くにはかなりの苦労を要します。
ですが、それがやり甲斐であり、面白みであり、自分の天職だと思い長年働いてきました。
しかし、毎年毎年彼らを育てても、また再び毎年毎年そういった生徒が入塾してきます。
義務教育では一人当たりに年間百万円近い予算を投入しています。
なぜ、これだけの予算を割いているにも関わらず、それに見合った学力がない子供たちがこんなに多いのか。
私は塾講師ですから、そういった子供たちと向き合い、学力向上に尽力して参りましたが、この毎年繰り返される現状に疑問を感じるようになりました。
課題は、公教育の改革です。
やる気のない子供たちや、学校授業について行けていない子供たちの学力の底上げです。
この根本的な課題を解決しない事には、永遠に塾に頼らないと子供の学力を担保できない現状から脱却できないのです。
そして、この課題は京都市南部に特に多く見られます。
国公立大学進学者の80%以上が偏差値63以上の高校を卒業しているというデータがあります。
京都市南部に偏差値63以上の国公立高校は、京都教育大学附属高校と、京都府立桃山高校の自然科学コースの2つのみです。どちらも伏見区にあり、南区にはありません。
御三家と言われる公立高校の堀川高校、嵯峨野高校、西京高校はすべて京都市北部にあります。
京都市は堀川高校に代表されるように、優秀な生徒に優秀な教員を就け、学びやすい環境整備をすることに熱心です。
以前は公立高校に優秀校なしと揶揄された京都の公教育が、今では公立高校から京大への進学者をどんどん輩出できる環境になりました。
しかし、陽の当たらない、公立中学・高校の授業について行くことのできない子供たちの学力の底上げにも、もっと目を向けるべきではないでしょうか。
まずは、「補習の充実」が必須です。1クラス35人前後いれば、飲み込みが早い子、そもそも勉強の仕方が分からない子など能力はそれぞれです。八幡市で導入されている「スタディーサポート」のように、放課後に民間教育機関が低額で学力をサポートするなど、公設民営での補習授業などの導入も検討すべきです。
教育こそ未来の人づくりです。
私たちが住む京都市南区の公立中学・高校の学力底上げをし、京都市南部にも公立の進学高校をつくりましょう!
そして、京都市北部だけではなく京都市南部も含め「学生の街、京都」にしましょう!
田中 みほ
介護と私
私が小学校5年生の時、家の裏に住んでいた祖父が認知症になり、深夜の徘徊がひどくなりました。施設を探しましたがなかなか見つからず、夜中に父が、警察に保護された祖父を迎えに行く生活が1年半続き、やっと長岡京市の施設に預けることが出来ました。
祖母は、そんな祖父を見守りながらも、白血病にかかり、私が中学校3年生の時に祖父より先に他界しました。
またこの頃、母は毎年京都市のがん検診を受けていたにもかかわらず、全ての内臓に広がる大きな癌が見つかり、闘病生活に入りました。多発性硬化症という病に侵されていたため、痛みに鈍感だったのか発見が遅く、まだ40代だった母は、がんの進行が早く、わずか4か月で他界しました。
そして時を同じくして祖父も帰らぬ人となりました。
私の幼少時代は、家族の闘病と共にあったと言っても過言ではありません。
地元南区の企業GSユアサで働いていた父が定年を迎えると同時に、私も大学を卒業。父は若い頃から片耳が聞こえず、視力も悪かったため、目の手術を再三行いましたが、視力はなかなか戻りませんでした。普段の生活にも支障をきたすようになっていたため、父の介護を最優先し決まっていた東京での就職を辞退し、京都に残ることにしました。その後、働きながら父の介護を続けることに限界を感じ、施設を探すも、祖父の時同様、全く見つかりませんでした。取り急ぎヘルパーさんを頼むことにしましたが、回数や時間に制限があるため、結局は介護してくださる方を探し、個人的に雇い、私と交代で介護をしてきました。
今から4年前、私がちょっと家を空けてる間に、目の不自由な父は、窓から転落して生死をさまよう大怪我を負いました。何とか一命は取り留めるも、二度と自分の足で歩けることはなく、死ぬまで病院での闘病生活が続きます。
私は幼い頃から「介護される者の苦しさ」を目の当たりにし、「介護する者の辛さ」をヒシヒシと感じてきました。あの時、もっと身近に頼めるような施設があればと何回も思いました。
今後訪れる超高齢化社会においても同じようなことが起こります。
介護保険制度が限界を迎えている今、介護を重要な課題としてとらえ取り組んでいく所存です。